蛭川村風土記

 バラバラの村?

 蛭川村を訪れた最初の頃、第一印象は、美しい村だが、どこか変わってるという印象だった。どこが変わっているのか?
 例えば、気づきにくいことだが、一般的な日本の田舎集落は寺社を中心に数軒から数十軒の民家が集まっていて、その周囲に畑・水田地帯があることが多い。しかし、蛭川村には一部の例外を除いて、そうした集合的集落が少なく、民家がてんでバラバラに離れて存在している印象だ。
 バラバラに住んでいると、犯罪や天災などで近所同士の助け合いが得にくくなると心配になるが、逆にそうした心配の少ない地域なのかもしれない。
 役場から安弘見神社の周辺にかけて、小規模な商店街を含んだメインストリートがあるだけで、他は北海道の農村風景に似た分散型の集落が多い。メインストリートに、どこにでもあるはずの寺院がないのも奇妙だ。
 これらは幕末の廃仏毀釈、寺院破壊に関係しているように思える。寺院があれば集落の核となり、コミニュティが成立し人は寄り添って生活するようになる。それを打ち壊した当地では、集合集落の理由がなくなったのかもしれない。

 また、村の特産である花崗岩の石切場が多く、至る所に花崗岩の露頭があって特異な風景を形作っている。観光地、恵那峡あたりは中国桂林に似た奇岩怪石が印象的で、独特の雰囲気を醸している。
 大正時代、京都の石材業者がこの露頭に目をつけ、全国に売りさばくようになった。この村の花崗岩は全国でも指折りの高品質とされる。結果、多くの露頭が切り出され、何か不自然な景観が残った。
 さらに、山慣れた私の目からは、蛭川村景観のバックボーンをなす山々、わけても笠置山と岩山の景観に特異性を感じる。山全体が妙にのっぺりしていて、尾根と谷の区別ができにくい。独立性の強い山容なのだが、大きな沢の浸食が見あたらず、尾根の切れ込みが不明瞭なのだ。
 おそらく山肌の透水性が高いため、沢への集水力が小さいのだろうと思う。だから、恵那山や木曾山地と明らかに異なる山容で、奇妙さを感じるのである。
 こうした景観が他の山村とは微妙に異なる雰囲気を醸し出していて、「ちょっと違う」という印象につながっている。
 だが、総合的印象を言うなら、古い民家と水田のバランスが「農村景観日本一」になったことのある近くの岩村町と似てとても美しい。紅葉の季節や村全体が霧に包まれたりすると幻想的な景観となる。ホタルのシーズンになると、村中の水田に青白いネオンが点滅して素晴らしいの一語に尽きる。これを見て、「蛭川に来てよかった」と、しみじみと感じた。

 廃仏毀釈

 この村は歴史的にも強い特異性がある。
 先史時代の遺跡は少なく、歴史伝承も南北朝以降のものが多い。「蛭川」の地名が最初に登場するのは太閤検地で、この頃、すでに小規模な村ができていたらしい。もっとも過去帳など古い伝承は、廃仏毀釈の際に焼かれたものが多いので、正確なところは分からない。
 江戸時代、この地域は今の中津川市に居城のあった苗木藩遠山家の領地だった。そして明治維新の際、全国でもっとも激しい廃仏毀釈が行われた地域でもあった。藩内のすべての仏教寺院・本尊・仏具・過去帳・石地蔵の類に至るまで叩き壊され焼かれた。その後、大正期までに再建された寺院が数軒にすぎなかったことで徹底ぶりが分かる。
 この事件は、それ以降の村の運命を大きく左右するものとなった。以来、村の宗教は仏教を離れ神道に傾いたまま戻らない。現在に至るまで、村人口の9割が神国教という希なほどローカル性の強い神道教団に帰依している。だから冠婚葬祭も、すべて神道方式で仏様の出番はない。
 どうして、これほど激しい廃仏毀釈が実行されたのか、とても興味深い。
 苗木藩遠山氏は縁戚の木曾代官山村氏とならんで室町期からの領主で、江戸期を通じても異動のなかった希有な例である。これは藩政が非常に安定性の高いものだったことを示している。
 この藩では上意下達システムが整備され、藩命によって村民は軍隊のように行動しなければならなかった。これは藩内に中山道という要衝を抱えており、参勤交代などの国事が多く、「助郷」として、いつでも戦争状態のような緊張を強いられた地域だったためだろう。領民は希なほど訓練されていた。
 島崎藤村が幕末の故郷を記録した歴史小説「夜明け前」に登場する青山半蔵のモデルは実父の島崎正樹だが、青山の名は苗木藩家老にして国学指導者だった青山胤道からとったと言われる。
 胤道は平田国学の創始者、平田篤胤から名をもらうほどの高弟で、廃仏毀釈を藩命として下達した彼の指導によって、苗木藩一帯で激しい仏教破壊が実行されたのである。統制のとれた藩政であったため、それは遅滞なく徹底的に実施された。
 (廃仏毀釈とは、本居宣長の弟子を称する国学の平田派が「政権を武家から天皇に返せ」と提唱し、武家政権の思想的支柱であった仏教を廃し、日本古来の伝統的神道思想に立ち戻るれと呼びかける過程での仏教破壊運動である。ちょうど今日のイスラム原理主義を思い浮かべればよい。これは明治政府の思想的根幹をなし、天皇専制国家の樹立から傲慢で無謀な国家主義、東アジア侵略へとつながっていった)

 蛭川村にあっては、胤道の同志であった奥田正道の指導によって、やはり徹底した神道教育が実行された。彼は仏教を壊しただけでなく、蛭川最初の寺小屋、後に小学校の創始者であり、今日、村民の宗教的支柱である神国教の創始者ともなっていて、以来、恵まれた環境とは言い難い山村ながら蛭川村の教育水準は低くない。
 私は、これほど徹底した仏教排斥の事実の背後に、江戸期を通じた宗教支配、隣組などの制度から仏教寺院に対する反感が蓄積していたのだろうと推理していたが、実際には、それを伺わせる資料を発見できず、激しさは苗木藩の施政実行力が強力だったことによると結論せざるをえなかった。
 (江戸期、尾張藩による留山制度により、住民の山林利用が著しく圧迫され反感が募っていた。その怨みの蓄積が寺院破壊へのモチベーションになった可能性は排除できない。このことが「夜明け前」にも示唆されている)
 苗木藩は廃仏毀釈を最後の施政とした後、藩政返還によって消滅した。遠山家最後の藩主に殉死する家臣を出したほど藩体制は最後まで強固であった。
 
 杵振り祭

 村民の9割が神道、それも超ローカル(ここだけの宗教団体という意味で)な神国教信者という全国でも希な「変わった村」にあって有形文化財はほとんど残されていないが、もっとも変わっていて面白い無形文化財がある。それは、村社、安広見神社の祭礼「杵振り祭」である。
 田植え前、4月頃に村社で行われる祭礼は、全国の祭り好きをうならせるほど独特の個性がある。これは豊作をもたらす田の神を山から呼び出す修験道の祭礼「花祭り」の発展形と思われ、実際、祭りの主役は花である。
 村の若者が役場から神社までのメインストリートを踊りながら練り歩くのだが、その踊りの振り付けがとてもユニークだ。若者達は花のように美しいチェック模様の大きな笠を被り、派手な黄色い衣装に身を包み、手に手に杵を持って振りながら整列して踊り歩く。こんな個性豊かな祭礼を見ることは珍しい。もっとも現在の形が完成したのは大正期ということで、本来の姿がどうだったのか知りたいところだ。
 全体の印象が、とても華やかで美しい。神社では巫女少女たちによる神楽が奉納され、行進の最後にも地元少女の楽隊が続き、花を満載した「花馬」がトリを引き締める。
 霊として故郷に戻ってきた先祖達を喜ばせ、その力を借りて田に豊饒をもたらす典型的な花祭り儀礼とも言えるが、振り付けの質がとても高く見物客を飽きさせないのである。
 私は正月のドンド焼きの写真を撮影すると多数のオーブ(人魂と言われる)が写ることを知っている。おそらく、杵振り祭の行進には、夥しい先祖の霊達が見物に来ていることだろう。蛭川村の豊かさは、こうした祭礼によって霊達を喜ばせることで、霊達の郷土愛を借りて保たれていると思っている。
 行進に先だって厄男によって御輿が神社に奉納されるが、私が感じたのは、そのすべてが明らかに旧約聖書に記されたユダヤ式祭祀を踏襲しているいうことだ。御輿が本殿に奉納されるスタイル、本殿の造作、御輿の形状までユダヤ人が見たら、びっくりして懐かしむであろう。
 
 【ユダヤと神道の関係について】
 知られているように、日本神道のマークは三角形を組み合わせたユダヤ教と同じ「ダビデの星」(六茫星)である。神道祭祀の多くが旧約聖書に記された方法に酷似し、2700年前、アッシリアにて忽然と消えた「ユダヤ失われた十部族」がシルクロードを経て東方に移動し、旧約聖書を伝播したことは確実であろう。
 3〜7世紀に朝鮮半島の百済王国が唐・新羅連合軍に滅ぼされ難民が大量に渡来した。当時の国家戦争の敗者民族は皆殺しが宿命だったからだ。その主役は秦氏であり、彼らのうちから天皇家が成立したと考えられる。
 秦氏は秦の始皇帝の子孫を称した氏族で、出自はシルクロード弓月国であった。今日でも、この地域のキルギスタン・タジキスタンなどでは旧約聖書を踏襲するユダヤ式祭祀が色濃く残っている。また民族的にも日本人に極めて近いと言われる。
 始皇帝「政」も、その風貌が中央アジア系コーカソイドであったとの伝承がある。秦氏の宗教は三位一体の鳥居を持つ神道で、八幡(ヤハウェ・ハタ)・稲荷(インリ→ナザレの王イエス意味する)など後の神道信仰の拠点となった。彼らはシルクロードを伝播した旧約聖書・ユダヤ教と新訳聖書・ネストリウス派キリスト教の影響を強く受けていた。東方キリスト教派には新旧聖書の混在が見られるのが普通であった。これが中国において道教の一部に取り込まれ、日本に輸入されると修験道や神道になったと思われる。
 聖徳太子は仏教伝来の始祖と位置づけられているが、その母、推古天皇には明確な百済名が残っている。太子の幼名「厩戸御子」は景教の「救世主が厩に誕生する」伝承が含まれている可能性が強い。伝来当初の仏教は、習合神道であり、修験道や景教も含まれていたと思われる。
 日本神道の様式はユダヤ教に酷似している。御輿は旧約聖書の指示通りであり、幕屋や神主の衣装も同じ、それが奉納されるときジグザグに動き時間をかけるのも、かつて御輿の原型となった「契約の箱」が20年毎に移動した名残を示すものであろう。これは伊勢神宮の遷宮とも共通である。
 また、古代神道の伝統をもっとも忠実に残すと言われる諏訪神社の祭礼には、「モリヤの神に捧げるイサク」の儀礼まで驚くほど忠実に残されている。御柱の儀式もユダヤ式である。
 教徒で「ユダヤ神社」と称される八坂神社は、ヘブライ語で「ヤーサカ」、ヤハウェの祭祀を意味している。当地、美濃国においては、古代から八坂神社が非常に多く、とりわけ可児市〜八百津町に多い。杉原千畝を出した八百津町は極めて不便な高原地帯で、高野山のような地形。隠里の条件を備えている。この地の伝承を調査することで、ユダヤとの関連が発見できるかもしれない。

 5月の大雪? なんじゃもんじゃ

 5月頃、笠置山登山道や神国教門前など、村のあちこちで、まるで大雪の積もったような、見事な白い花が咲く木を見ることができる。ちょっと変わった蛭川にふさわしい珍しい姿で、学名「ひとつばたご」(一つ葉タゴ)、通称「なんじゃもんじゃ」という奇妙な名がついている。
 「なんじゃもんじゃ」の由来は、江戸時代に江戸の青山六道(神宮外苑)に移植された木が「雪の木」として有名になり、それを見た殿様が「あの木はなんじゃ」と家臣に問うと、家臣が「なんじゃもんじゃ」と答えたとか、笑い話のような伝承がある。
 モクセイ科の落葉高木で、高さは15メートル程度、幹は50センチ径程度になり、花の咲いた姿が珍しく、とても美しいのでローカルニュースに取り上げられるほど親しまれている。
 「タゴ」とは「トネリコ」(タモ)のことで、バットや道具の柄に使われる有用木だが、漢方ではアオダモの樹皮が秦皮(ジンピ)として痛風の尿酸排泄特効薬として用いられる。ヒトツバタゴも生薬名秦皮と書かれたものがある。もちろん、これは天然記念物に指定された稀少木で実用に用いられることはない。
 実は、私も痛風で、秦皮のお世話になっているが、驚くほど良く効く。ところが、最近、中国が秦皮を漢方指定薬から外したので輸入が途絶えてしまった。入手できずに困っていて、この木が気になってしかたがない。
 国内では、犬山から蛭川の木曽川流域周辺に自生するほか、はるかに飛んで対馬にも自生している。東京や名古屋に生えているものは、江戸期に移植したものらしい。
 朝鮮半島から中国福建省、シルクロード周辺にも希に見られるというが、その分布に、この木の秘密が隠されているように思える。 渡り鳥により運ばれた可能性が強いと言われるが、とても特異な木なので、もしかすると、シルクロードから朝鮮・対馬を経て笠置山にたどり着いた集団が、なんらかの目印として用いたのかもしれない。
 そう、「失われたユダヤ10部族」と考えれば面白いが、残念ながら証拠がない。
なお、この花は4月末に名古屋市内で咲き始め、最も遅いのは、6月はじめ、笠置山表登山道の7合目に天然記念物として指定されたもので、大雪が積もったと見まごうもっとも美しい花を咲かせるのは数日間だ。一見の価値はある。

 村のルーツ

 これらの民俗は、この地域に東濃地方の一般的な民俗慣習から、かなり離れた独自性の強い文化が育っていることを示すものだ。村人の人相も、目が大きく、二重瞼で鼻筋が通っており、男はヒゲが濃くアイヌ的風貌が残っている。どちらかといえば、東濃というより北関東〜東北太平洋側の人たちの特徴があるように思えた。
 そこで、村の図書館でルーツを調べてみた。廃仏毀釈や戦災により資料が散逸消失しているため、具体的なものは少ないが、おおむね、南北朝戦争時代に、後醍醐天皇の子であった宗良親王に率いられて北朝、足利尊氏に対してゲリラ戦を仕掛けていた頃、南朝側の武士が和田川沿いに住み着いたというのが定説のようだ。
 はっきりした伝承が残されているのは一色を拓いた田口、下沢を拓いた林で、林三郎太郎という武士が上州(新田義貞の随員だったように思われる)から宗良率いる武士団の一員として居を構えたということのようだ。となると、この村の起源は室町前期に遡ることになる。
 私が住んでいるのも下沢の一角で、回りは子孫である林一族で占められている。彼らに共通する人相は、エラの張った屈強で粘り強い戦闘的性格を示すものだ。源平の子孫など中世武家集団を彷彿させ、これなら北関東武士団の面影といっても不思議ではない。

 京丸伝承の謎

 さて、この杵振り祭の解説を見ていて、ぶったまげるような記述に出くわした。この祭りの起源について、南北朝戦争の当時、後醍醐の子の宗良の子、之良親王が浪合にて北朝側に殺され、その首級を奉じて高塚に祀り、それを守って、この地に住み着き祭祀を続けてきたと書かれていたのだ。
 実は、これと細部まで全く同じ伝承を、私は遠州最奥の僻遠の里、京丸ボタンで知られた周智郡春野町京丸に見ていたのだ。地名も登場人物も同じ。浪合というのは飯田線、佐久間町に近い奥三河の古い地名で、ここに鎌倉時代から続く熊谷家という歴史的家系があり、数百年に渡る「浪合記」という有名な記録が遺されている。
 もっとも有名なものが、南北朝当時の伝承で、当時、南朝側は楠正成、新田義貞など関西・関東の武士団の応援を得て、北朝足利勢力と百年近い長期のゲリラ戦を展開していた。熊谷家も南朝側の主力であった。
 どうも、この之良(当地では「マサナガ」、京丸では「コレナガ」、川根では「ユキヨシ」と呼び方多数)伝説、南朝武士団の活躍した南信三遠(伊那谷・奥三河・静岡西部)に広く伝わった伝承らしい。京丸や蛭川以外にも同じ伝説があるように思えてきた。浪合記に多数のバリエーションがあることは聞いていたが、まさか之良伝説にも複数の地域があることなど知らなかった。なお之良を祀った高塚は蛭川和田地区に実在しているが、京丸の裏山も同じ之良を祀った高塚山である。その高塚山の裏側にあたる川根地区にも之良伝承が遺されている。
 南北朝戦争を題材とした古典に「太平記」があり、これらは幼い戦国武将達を薫陶する数少ない教養書であった。北朝方、今川家の人質であった徳川家康も、太平記を読んで空想を膨らませながら育ったといわれる。
 後に家康の政策基本理念となったのが「二分割対立支配策」であり、これは、幕府に対抗するすべての勢力を二分し、対立させることで争わせて支配するというものであった。これこそ、まさしく太平記に描かれた分裂対立の悲劇の教訓に他ならなかった。修験(天台・真言)本願寺(東・西)神道(白川・吉田)大工・木地屋に至るまで、すべての集団勢力は二分割され、互いに争わせることで、幕府に力を向けることを防止したのである。

 都から遠い僻地では、住民が自分たちのルーツを他の地域に自慢するため、作為的な伝承を作るケースが多い。遠い地域の伝承を持ってきてしまうのだ。日本全国に、ありえない空海や行基の伝説が多いのはそのためだ。遠くから訪れた客人を喜ばせるためでもある。
 この地では、下沢林家の祖となった林三郎太が上州(新田)から南朝武士団の一員として住み着いたことが明確で、どうも彼らが京丸の南朝伝説をそのまま持ち込んだように思える。ちなみに京丸では伝承を裏付ける応永時代の石碑など物証が出土しているが、当地にそれらしいものは見あたらない。

 笠置山とペトログラフ

 蛭川村にとって故郷の山は、なんといっても笠置山である。蛭川村の大部分は笠置山の山麓で、一部岩山の山麓となっている。
 海抜は1200mに満たないが、独立峰のような姿形がとても美しい。とりわけ私の住居である下沢中山の頂から見た笠置山は、まさしく、うなるほどの盆栽的絶品景観。日本中の山を1500回以上も登った私が太鼓判を押しておく。
 決して大きな山ではなく、私の家から徒歩3時間もあれば登れるのも手頃でよい。ただ、近年、山の価値のなんたるかを知らない愚かな人たちによって、山頂近くまで車道が延長され、そのため稀少な光苔が取り返しのつかないほど荒らされてしまった。
 東濃地方の多くの山が、林道拡張によって荒廃し、鹿や猪、猿などの害よりはるかに深刻な森林荒廃をもたらしている。山腹横断林道は崖崩れの起点となる。車で入れることによって、志もなく、無知で軽薄な者も簡単に入山できるようになり、山の財産、恵みを強奪するために徘徊する条件を与えている。
 山は手軽に登れることによって荒廃をもたらし、その価値を失うのである。山を守ろうとする志の高い者には手軽さは必要ない。汗水たらして苦労して登ることこそ、山の真の価値であることを知っているからだ。
 山を真に愛する者なら、決して安易な林道開発に賛成しないだろう。役人が業者に接待を受け、その便宜を図るために計画された自然破壊構築物の数々、これらは地方の存立基盤を取り返しのつかないほど荒廃させている。人々を自然から引き剥がし、郷土愛を失わせているのだ。蛭川の人たちが笠置林道によって得た恩恵より、失ったもののほうがはるかに大きいはずだ。こうした、ものの見方、考え方は、幼い頃からの自然観察と創造的関与によって身に付くものだ。子供達に、山のもたらす恵みと、その保全を考えさせていかなければ村の未来も危ういのである。

 さて、その笠置山だが、これもまた変わった山である。長年、全国の山々を歩き続けてきた私も、これほど変わった山に出逢うことは珍しい。何が?
 まず、山肌に沢の浸食が少なく、のっぺりしている姿については、すでに述べた。当地が花崗岩地帯で特異な岩盤に覆われていることもすでに述べた。
 さらに、笠置山の山腹に、高さ数メートルの大きさの奇妙な岩が無数にニョキニョキと生えているのである。こんな姿は他に例が少ない。笠置山独特の景観といってよい。
 古代宗教研究者は、こうした岩を「ドルメン」と名付けて、アミニズム(自然神信仰)の礼拝所として使われた可能性が強いとする。実際に、笠置山のこうしたドルメンには、「ペトログラフ」と名付けられた古代文字の刻印が存在することが明らかにされた。
 刻印の意味は、まだ完全に解析されたとは言い難いが、一部、「ヒムカ・イルガ・ギギ」などの音があるとされ、「我らに水の恵みを」とする縄文時代の雨乞い儀式の意味があったと明らかにされた。また、盃状の加工には、明日香の酒舟石のように、なんらかの生薬調合が行われた工場か、霊的祭祀場所であった可能性も示されている。
 私は、山頂近くの物見岩や姫栗側の刻印を見て、その具体的意味を実感することはできなかったが、山頂から、こうした遺跡群を経て直線状に南に向かう遺跡・祭祀ルートが存在することを確認した。このルートの先には遠州灘・太平洋がある。
 かつて私は大峰山地の山頂から熊野灘の日の出が、光の柱を伴って宝石のように神秘的に見えることを知った。おそらく、笠置山頂からも季節によっては海の光が神秘的に現れる条件が存在するだろうと想像したのだ。古代人にとっては、見えざる神が姿を現したと感動する機会だったのではないかと感じた。そうした場所がドルメンとして大切にされたのではないか。

 鉱物・放射能・鉱泉・陶土

 笠置山から蛭川峠を伝って山並みが続いていて、白川町赤河・黒川地区に延びている。元々、白川は白・黒・赤の色合いを持った三つの川の流域をまとめた村であった。ここも苗木藩領で、やはり廃仏毀釈が激しく行われ、今でも神道の影響が強い。
 実は、私の祖母が黒川出身で、今でも親戚が肉牛牧場を経営している。決して深い山岳地帯ではないが、標高千メートル前後の山並みが海のように連なって北アルプスに向かっている。人々は山襞の隙間に林業や牧畜で素朴な生計を立てている。
 黒川は蛭川のように花崗岩には恵まれず、蛭川衆が花崗岩産業や耕地にも恵まれて豊かだったのに比べると、遠ヶ根峠を越えた黒川一帯は貧しかった。しかし、戦前、この笠置山から岩山・二つ森山・寒陽気山に至る山々に国内指折りの稀少鉱物を産することが明らかにされた。
 花崗岩石切衆は、採掘のとき岩の空洞にニョキニョキ生える煙水晶やトパーズを見て驚いた。村の河原にも磨かれないトパーズがごろごろ落ちていた。石材業が成立するまで、この村が宝石の産地であることに誰も気づいていなかった。
 薬研山付近でトパーズ・サファイヤ、希にはルビーまで産出したことで寒陽気山などにも可能性が広がり黒川衆に希望を与えた。しかし、結局、遠ヶ根峠や薬研山に鉱山が拓かれたものの埋蔵量が少なく、本格的な鉱業は成立しなかった。
 しかし、国内では非常に特異な地質であることが証明され、まだ未発見の稀少鉱物埋蔵の可能性が小さくない。
 また、強い放射能を帯びた土地で、岩山一帯ではラジウム鉱泉脈が広く存在している。鉱泉こそ宝石よりもはるかに価値の高いものだった。私の家でも井戸を掘ったら 、このラジウム鉱泉が出てしまい、嬉しいやら困ったやら。
 泉質は秋田の玉川温泉に似た炭酸ラジウム泉、とても暖まる想像以上に素晴らしい鉱泉である。現在、岩寿・東山・ろうそくの三軒の温泉宿が営業しているが、泉質の素晴らしさが知れ渡れば、私の土地も含めて一大温泉郷になる可能性もあると思っている。
 ただ、強い放射能が人体に悪影響を与えないか心配している。私の土地では、新品のゴム草履が半月でベロベロ。自転車のゴムタイヤがボロボロになり、中からチューブがはみ出してきた。こんなことは他で聞いたことがない。かつて蛭川村のガンマ線被爆による白血病の増加を調べたことがあるが、公開された資料からは、深刻な疫学的影響を確認することはできなかった。むしろストレスの少ない長寿村であることが分かったが、妊娠2〜4ヶ月の妊婦にとって安全な地域とは言い難い。
 東濃地方は全国指折りの高放射能地帯で、その原因はウランを多く含んだ花崗岩にある。蛭川から西に20キロほど離れた瑞浪市日吉地区には旧通産省が作ったウラン採掘精錬所があるほどだ。そのウラン含有レベルは鳥取県の人形峠を越えて日本一と言われている。また苗木地区の空間ガンマ線量も日本一で、蛭川村田原地区でも、ほぼ同じ水準とされる。
 この花崗岩が風化したものが日本窯業を代表する東濃陶土となり、瀬戸・多治見・瑞浪一帯のセラミック産業を支えているのである。良いものも悪いものも紙一重である。なお、蛭川の土の大部分も陶土として利用可能である。ただし、御岳火山灰の赤土では煉瓦くらいしか焼けない。 

 蛭川村の未来

 この村は自治開闢150年という、古い単独村区の歴史があり、独自の個性を育んできた。しかし、お定まりだが、バブル期の「開発幻想」に取り憑かれた有力者による回収のアテのない浪費が重なった結果、財政は破綻し、浪費を主導した自治官僚の言いなりに中津川市と合併しようとしている。
 歴史的には恵那市とつながりの深い地域なので、合併相手を間違えているように思うが、中津川市のほうが財政的に余裕があるという判断のようだ。いずれ、恵那市と中津川市も合併せざるをえなくなるだろうが。
 合併されれば合理化の名の下に地域サービスは画一化し、木で鼻をくくったような血の通わない行政が展開され、村の特異な歴史、個性のうち利用価値がないと判定されるものは放棄される宿命にある。
 例えば客を呼べる杵振り祭は残されるだろうが、村の図書館や資料館は閉鎖されるだろう。採算性の薄い事業は閉鎖される。また村独自のコミニュティを成立させることも困難になる。村の個性、独自の歴史も人々の意識から遠のいてゆくだろう。

 排水浄化とホタルへの危惧

 それ以上に危惧されるのは、合併後の効率優先自治体施策により、ホタルで有名な素晴らしい水質の水域が取り返しのつかないほど荒廃する事態である。
 既存の誤った集合下水処理により殺菌剤を含んだ処理場排水が流域生態系を破壊する可能性がある。すでに当地では下水道幹線工事が完成に近づいているが、これが完成した暁には、お粗末な活性汚泥処理と殺菌剤によって河川流路の浄化能力が大幅に失われ、ホタルを育む素晴らしい水質を潰滅させるのではと強く危惧している。
 そこには鯉や鮒は棲めるが、鮎やアマゴが棲むことはできなくなる。
 生態系に無知な官僚の設けた水質管理法では、BODや大腸菌数によっては塩素殺菌を強制している。これは大腸菌殺菌の名目で塩素化合物を放流することで、流域の全生態系に強い悪影響があり、流路の浄化バクテリアを死滅させ、死の水路を造るものだ。何もしなければ水路こそ最大の浄化装置なのに、殺菌することで、それが失われるのである。
 こうした愚かな施策の例をあげよう。かつて、子供達にレントゲンによる結核検診が法的に強制され続けた。これは一人の結核児童を発見することと引き換えに、数十名の被曝ガン患者を発生させるリスクが明らかであった。実は、現在の中高年女性の乳ガンの大部分が、児童期における結核検診被曝によると考えられるのである。ガンの潜伏期間は20〜40年、因果関係の特定が困難なことを幸い、国民にガンをもたらす強制検診が長期間続けられた。
 殺人行為ともいうべき馬鹿げた過ちが続けられた理由は、それを定めた厚生官僚と利益を得る検診会社が天下りや接待で密着同体であったこと。そして、その会社こそ、関東軍731部隊、北野司令官が設立し、エイズを拡散したミドリ十字社の子会社であったことと無関係ではない。
 また、かつて朝鮮戦争とベトナム戦争のとき、アメリカ企業は大量の火薬を製造して在庫が膨らんでいたが、戦争終結とともに、この処分に困り、多くを化学肥料と農薬に転用し、それを日本など同盟諸国に押しつけた。これらの戦争の直後、農林省は全国の農村に化学農業資材を多用するよう指導通達した。自然の循環サイクルを守っていた日本農業が、朝鮮戦争後に劇的に化学肥料型荒廃農業に転じた理由はこれであった。
 ベトナム戦争後には、戦場で使われた毒ガス、ダイオキシンなどが農薬に転用され、アメリカから安価に輸入された。日本農業は、農林省の指示により劇的に農薬依存型に転換したのである。それらがもたらしたものは、作物の救いのない品質低下と農民の健康被害激増だけであった。
 水道行政に用いる薬品も無関係ではない。科学技術の幻想に縛られ、機械と薬品を多用することが高度技術であるかのような錯覚に支配され、取り返しのつかない自然破壊に邁進し続けている本質に気づかねばならない。
 本当の科学は決して技術や機械・薬品に頼るものではない。それは自分の五感を働かせ、自然を観察し、その法則を熟知して生かすものである。
 例えば、排水の処理は自然界の浄化バクテリアを最大に生かして、排水流路すべての浄化作用を総動員するものでなければならない。現在の行政が行っていることは、決して水を浄化しようとするものではない。浄化を名目に、巨額の工事費用をかけ、機械と薬品を多用し、さも科学技術であるかのようなコケオドシ設備を設け、業者に金をばらまき、天下り先を確保しようとする愚劣な浪費行為にすぎない。

 EM浄化槽

 そうした真実の科学による浄化システムが、すでにEM菌やEMBC浄化システムとして数多く実践されているにもかかわらず、権威ある学者や機関は自分たちの縄張りの外で発見されたEM菌、受賞と無縁の技術は、どれほど素晴らしいものでも無視するのみであり、公的な検討対象から完全に黙殺され、EM菌によって大腸菌が完全に死滅するにもかかわらず、そのEM菌をも殺してしまう塩素殺菌を法的に強要しているのが愚かな行政の実態なのである。
 生態系を守り最高の浄化を行えるシステムは、実は完成しており、私自身が、それを実践し日々検証している。それは莫大な金のかかる下水道による集合処理と対局にある小規模戸別処理であり、驚くほど安くあがる簡単な設備で、集中下水道処理施設の数十倍の浄化能力を持ち、合併型浄化槽でありながら完全に飲用水準の排水しか出さない奇跡ともいえる機能を持っている。
 だが、こうした浄化槽の性能がどれほど素晴らしいものであっても、公的な認証を得ない限り法的には決して認められない。その認証の壁は既存業者を保護するため異常に厚く高いものになっている。例えば、浄化槽設置主任者の資格試験の条件は、何の合理的理由もなく7年の実務経験を要求している。これは新入業者を排除する壁としての意味しかもたないのである。
 日本の行政は腐敗している。業界と役人の腐乱した関係は、天下り役人の実態を見れば誰にでも理解できる。こうした腐敗行政が、日本の根幹を崩壊に導くばかりか、かけがえのない自然生態系をも取り返しのつかないほど破壊してゆくのである。
 EM菌を用いれば、簡単な設備で排泄物や洗濯排水を飲用水準まで浄化できる。排便の悪臭は芳香にとって代わる。排水路にはEM菌が繁殖し、大腸菌を死滅させながらホタルの繁殖できる清浄水を作り出してゆく。
 畜舎の悪臭も完全に解決できる。現在、当地においても悪臭を克服した畜舎の大部分がEM菌を使用しているのだ。生ゴミは素晴らしい堆肥に変わる。堆肥ボカシの大部分がEM菌に代わったことは常識になった。これらは実証された技術でありながら、行政は無視し、従来の生態系破壊技術に固執し続けている。既存業者の利益を守りたいからだ。
 人類の未来を救う最高のテクノロジー、EM浄化槽は違法として排除され撤去命令を受ける。我々は、こんな時代に生きている。